2007年9月21日金曜日

躊躇

 1.あることに耐え、そういうものだと受け入れて諦念のうちにあること

 2.それは違う、ともがいて周囲の謗りを受けながらも自分を貫くこと



どちらかといえば後者を選択してきた私。

1を選択している友人に言おうか言うまいか悩んでいることがある。

いや、諦念という言葉の正確な概念は知らないが、今の彼女の心の平安を諦念とするのは

こちらの愚かな詮索に過ぎないのかもしれない。
「でも、それでいいの?」「それで、本当に幸せと感じられるの?」

今、遠く離れているからこそ時折意識の中によぎる彼女の姿。

学生時代から断片的に会って、電話でしゃべり、手紙をやりとりするだけの・・



もっとも、私が一番近しいと思っている友とはお互いのあわただしさにかまけて電話すら、

年によっては年賀状すら「ごめーん、書かなかった」くらいだ。

コミュニケーションの多少が近しさに比例するとは思わない。



今、気がかりなのは、「本当に」彼女が幸せなのかどうか?だ。

できるなら、いつでも「よかったね」と言っていたい。

けれど、まぜっかえすような一言で気分を害されるのを覚悟で「他の可能性もあるんだよ」

と告げるのは・・それこそいらぬおせっかいだろうか?

こんなことで悩むのは、年月を経た今、別の友人が電話で忠告してくれた一言が今でも

心に残るからだ。「そんなの、あなたじゃない。あなた、幸せじゃないよ」

そのときは現状を否定されたような苦い気持ちで聞いた。気持ちはわかるけど、私の

実情を知らないからだわ、と。

けれど、自分の意思ではないながらも状況が変わってきた頃

ふとその言葉を思い出した。「ああ、彼女は痛々しい気持ちで私を見ていたんだ。言える精一杯のこ

とを伝えてくれてたんだ」

私がその友人と同じ立場に今あるわけではないだろう。けれど、私は尋ねずにいられないのだ。

私は、彼女の口から「これが、幸せ」と聞くまで。

でも、おそらく訊けないだろう。いや、でも今ならまだ間に合う?

私は逃げているのだろうか?

以前、前長崎市長の娘が夫落選の無念ぶりを長崎市民にぶつけた事があった。
「父は、みなさんにとってそれだけの存在だったのですか?」

これには様々な反応があったと思う。現に私でさえ、もしも仮にコメントを求められたら

自分の意見として一本化するのに困った。
「投票し、支えてくれた人もいたのになんて失礼!」
「思い込みで政治をされるのは困る」
と否定的に見る自分と同時に、ちょっと感動している自分もいた。
「素直に心情を吐露する姿は胸をうつ」たとえ理不尽であっても・・

そう、理不尽であったとしても自分をさらけだして貫いてほしい。


自分の立場からは「本当はこう思う」というのを聞きたい。

2007年9月16日日曜日

国民という言葉

国民という言葉は、確かにあるのだし、それはそれで指示する対象がはっきりとわかり便利なのだが、はて、いったい具体的に誰を、誰たちを指しているのかいまひとつ実感が伴わない。
徹子の部屋の「テレビの前の皆さま」という呼びかけくらい「あ、皆さんのなかに私も入っているの?」という自問が10分くらいあとでなされるくらい実感が伴わない、実はかなり虚ろな言葉なのだ。

何かの言い訳、あるいは敵を誹謗するときの引き合いに出されるくらいで、「国民」は夫婦喧嘩の原因にされた子供みたいに所在無くおろおろするしかない。そのうち、誰かの味方をするでもなく馬鹿らしくなってくる。傍観を決め込む。すると、政治参加する気がない!だの怒られる、国民ひとりひとりのの力で!また国民だよ。。とうんざりする。
と、ぼやく私はいったいなんて呼ばれたいんだ?とただのクレーマーに堕する危険を察知し、自問してみる。
「日本に住んでいる人」でいいんじゃないでしょうか?

ところで、あの辞任劇を私はこう読む。
一夜で変わった訳を。あのどんでん返しを。
きっとものすごい圧力がかかったのだ。国際的に。
ただ日を選んで圧力がかかったのだ。
周囲の反応からして察してあまりある窮地に陥った首相を想像する。
言っていることは理由のほんの2,3パーセントで、もしかしたら
も星新一ふうにいうならば、首相自身、もうすでにアンドロイドかもしれない。
好き嫌いでいうならば、嫌いでなかった安倍さん、いかにも一応東宮ふうで、
おっとりしていて家柄は周囲からも文句の付けようがない。
それに乙女座だ。私の弱点である。
乙女座の国民の皆さん、いえ、乙女座の日本に住んでいる皆さん、私の判断を誤らせるので
どこかに行ってください。

2007年9月3日月曜日

夏の暑さと蝉の声、
いくら猛暑といっても生命を脅かされない限り、私は夏を堪能したといえる。
寒い夏はきらいだ。
暑すぎる夏は、むしろ太陽に抱擁され、熱気はその吐息に満ちている。
地球はその情熱に身を任せているのだ、愛は破壊か?と自問してみる。
適量の愛、なんてないのです、と吉原幸子が叫んだオンディーヌ!

そして蝉の鳴かない夏ほどさびしいものはない。
耳で味わう快感、虫の声、鳥の声、あるべき時期にそれがないと、季節を抜かしてしまった気がする。
無音の冬を脱して、ひそめく春を過ぎ、ジー、とどこからか聞こえ出すとき、
「ああ、onになった」とわたしは安心する。
夏への期待をこめて。

蝉の鈴なりになる木がある家は辟易しているだろうが、
私はあの鳴き声をいつまでも聞いていたい。
そのシャワーのなかにいるだけでドーパミンが放出される
脳のどこか壊れた部分が修復されてゆくような快感。

昨日、ベランダに出ようと思ったら蝉が超低空で飛んできて私の足に絡みついた。
おそらく、私が蝉を愛している、という感情に応えてわざわざ来たのだ、と理解した。
が、いつもの愛情にもかかわらず私は「あっ」と叫んで逃げてしまった。
蝉に対して失礼なことをしたと思う。けれど愛惜と咄嗟の反応は相容れないものなのだ。
どちらが本心かわからない。ただ、虫としての形状を好まないだけであると
揚がり過ぎた黒かりんとうのような感触。

蝉は命を終えても、道を風に吹かれるままにその体は鳴き声を立てる、カカカカカ・・と