2007年5月27日日曜日

いったいなぜ・・?

・・・と自問することがよくある。



なぜ、私は今ここで仕事しているんだろう?

なぜ、ここに住んでいるのだろう?

なぜ、舞台で演奏しているのだろう?



確かに、自分の意思で選び取り、行動してきた結果であるのだが

結果的にそうなったという、受身である自分を意識する。

運命論者というわけではないが、

源氏物語を演じずにいられなかった。

そのソナタを弾かずにいられなかった、という理由がただ好きだからというわけではないところに

意思をはるかにこえた何かを想像する。



今回、7月に公演予定の「しのばしき昔の名こそ」は

平家物語の女性版、「建礼門院右京大夫集」をもとにしたピアノ語りであるけれど

いつか自分がこの物語に関わるなどとわかって試験勉強で国語便覧をにらんだ私であったろうか?

いや、もともと原作者の箭内氏とは、「新古今をしよう」という話だったのだ。

セレクトした和歌の流れがひとつのストーリーをなすような、そんな音楽情景を描き出したい、

それだけだった。

それが、「歌物語なのですが、これが面白くて・・」ということで「はぁ、名前だけは知っているけれど・・・まあ和歌に造詣の深い彼がそういうのだから」とこの点無知分野には素直な私は従ったというわけだが、始まってみたらこれが大変。史実で事実であることの重み、というのは創作の重みと全く異なる。



いくら惚れた死んだ泣いたといっても物語は物語。作者が実話を踏まえたといっても、それは知的に再構成された創作であるわけだ。

平家物語には時間や事実の操作がかなりの割合で働いているらしく、そのなかのドラマ効果は満点で涙必定であるが、その平家物語成立の際、参考にされたといわれるこの「建礼門院・・」はどこまでもリアル、まぎれもなくノンフィクション。日記のような歌物語であるから主観に終始しているのだが、事実にもとづく感情の起伏のダイレクトさは共感、以前にいったいどんな女性だったのか?と想像してみたくなる。雅な京女、を装いながら激情に翻弄されるわが身をクールに保つことのできるひと。全体のなかで自分はどうあるべきか、という美学をきっちりともっているのだろう。

 

 しかし、この作品は女性と、男性では受け取り方が大分分かれるように思われる。

作者の意図の一つは、我が胸ひとつに秘め、恋人、平資盛(たいらのすけもり)の後世を弔ってきたのだが自分亡き後それが絶えてしまうことを哀しく思って、恋の思い出を書き「残した」

とはいえ、遠い将来誰かに、それもピアノで語られようとは思いもしなかったであろうから

舞台用の台本に仕上げるのは最初から無理のある作品だ。それでも台本の基礎を作りあげてくれた箭内氏であった。純粋に歌の美を堪能するのであれば氏の台本が良かったかもしれない。しかし私も原文を読んでみて、これは、とピックアップしたくなる箇所の微妙な氏との違いはやはり男性と女性とでの視点の違いのようなものが働いているように思われた。

いずれにしても、右京の大夫の大切にしてきた思いをこちらも大切に受け止めたい。

そして色々な感想を聞いてみたい。

2007年5月25日金曜日

裁くということ

今朝、出掛けに見たニュース。聞くことさえ痛ましい、想像するだに気が狂いそうな事件。
いわゆる、裁く側は自分の中の情との葛藤に苦しむだろう。
そして、法とはなにか?どういう目的で活かされるべきかの疑問に毎度直面するのだろう。
不当だ、という怒りが発生してそれを解消するために取った復讐があらたな怨恨を生み連鎖させるのが歴史であり、尽きることのないカルマであるのなら、それを解消する方向に、知の力によって不満、不服を最小限におさえるのが法であるのだろうか。それが人間の生きるコミュニティでの掟といえるのだろう。
原告、被告それぞれが自分の側の主張が通ってしかるべきと考え、全力を挙げて争う法廷で裁判官は一体何をすればよいのか?行きの電車の中で考えてみた。

同情や憤りという感情を抑えて、というより、冷静さを保つことに情熱を傾けて、
「それぞれを最大限に明らかにすること」が使命なのかもしれない。
明らかにされた形によって現行法が適用されて形になる。人が人を裁くことはありえない。
しかし、人が作ったものによって裁きはあたえられる。

と、こう考えてくると本村さんの言い分はもっともだ。情を全く抜きにしても。
判決に対してでなく法そのものを問うのなら、問題にする場ではないのはわかりきっている。


話は変わるが
お昼を食べようと長いテーブルに座ったら何と目の前にハエがいた。
他に何人かいたので、場の雰囲気を考えるとことさらに騒ぎ立てることもできず、ましてや捕まえることなぞできずに・・さらには、ハエもごはんを一生懸命食べているらしいことを発見。
誰かがこぼしていったたまご蒸しパンのパンくずを満足そうに食べている。
そこで、私とハエは「お昼を食べている生き物」という同じカテゴリーに入ってしまったことを確認。
そこに何の違いがあろうものか、ジャイナ教みたいな聞きかじりの思想が頭をよぎり、
にっちもさっちも・・・私はただ、だまって食べ続けていた。ナチュラルローソンののり巻きみたいなサンドイッチを。味も何もなくただ黙々と・・ああ、こうなったら俳句でも詠むしかないか、と諦めかけていたところ、なんと!不意に入ってきていちはやくその状況を察知し、さっさと解決してくれた人が現れたのだ!しかも場を乱すことなく。とにかく有難かった。この際法などどうでもいい、救われればそれでいい、という自らのエゴを再確認した瞬間でもあった。