・・・と自問することがよくある。
なぜ、私は今ここで仕事しているんだろう?
なぜ、ここに住んでいるのだろう?
なぜ、舞台で演奏しているのだろう?
確かに、自分の意思で選び取り、行動してきた結果であるのだが
結果的にそうなったという、受身である自分を意識する。
運命論者というわけではないが、
源氏物語を演じずにいられなかった。
そのソナタを弾かずにいられなかった、という理由がただ好きだからというわけではないところに
意思をはるかにこえた何かを想像する。
今回、7月に公演予定の「しのばしき昔の名こそ」は
平家物語の女性版、「建礼門院右京大夫集」をもとにしたピアノ語りであるけれど
いつか自分がこの物語に関わるなどとわかって試験勉強で国語便覧をにらんだ私であったろうか?
いや、もともと原作者の箭内氏とは、「新古今をしよう」という話だったのだ。
セレクトした和歌の流れがひとつのストーリーをなすような、そんな音楽情景を描き出したい、
それだけだった。
それが、「歌物語なのですが、これが面白くて・・」ということで「はぁ、名前だけは知っているけれど・・・まあ和歌に造詣の深い彼がそういうのだから」とこの点無知分野には素直な私は従ったというわけだが、始まってみたらこれが大変。史実で事実であることの重み、というのは創作の重みと全く異なる。
いくら惚れた死んだ泣いたといっても物語は物語。作者が実話を踏まえたといっても、それは知的に再構成された創作であるわけだ。
平家物語には時間や事実の操作がかなりの割合で働いているらしく、そのなかのドラマ効果は満点で涙必定であるが、その平家物語成立の際、参考にされたといわれるこの「建礼門院・・」はどこまでもリアル、まぎれもなくノンフィクション。日記のような歌物語であるから主観に終始しているのだが、事実にもとづく感情の起伏のダイレクトさは共感、以前にいったいどんな女性だったのか?と想像してみたくなる。雅な京女、を装いながら激情に翻弄されるわが身をクールに保つことのできるひと。全体のなかで自分はどうあるべきか、という美学をきっちりともっているのだろう。
しかし、この作品は女性と、男性では受け取り方が大分分かれるように思われる。
作者の意図の一つは、我が胸ひとつに秘め、恋人、平資盛(たいらのすけもり)の後世を弔ってきたのだが自分亡き後それが絶えてしまうことを哀しく思って、恋の思い出を書き「残した」
とはいえ、遠い将来誰かに、それもピアノで語られようとは思いもしなかったであろうから
舞台用の台本に仕上げるのは最初から無理のある作品だ。それでも台本の基礎を作りあげてくれた箭内氏であった。純粋に歌の美を堪能するのであれば氏の台本が良かったかもしれない。しかし私も原文を読んでみて、これは、とピックアップしたくなる箇所の微妙な氏との違いはやはり男性と女性とでの視点の違いのようなものが働いているように思われた。
いずれにしても、右京の大夫の大切にしてきた思いをこちらも大切に受け止めたい。
そして色々な感想を聞いてみたい。
2 件のコメント:
すみません、思わぬご無理を強いてしまいまして(汗)
男性と女性との視点の違いというのは私も思います。観客の側でも男女によって受け取り方が違うかも知れませんね。
janai さま
お世話になっております。おかげさまで作品との出会いをさせていただきました。公演が楽しみですね。よろしくお願いします。
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