2007年5月25日金曜日

裁くということ

今朝、出掛けに見たニュース。聞くことさえ痛ましい、想像するだに気が狂いそうな事件。
いわゆる、裁く側は自分の中の情との葛藤に苦しむだろう。
そして、法とはなにか?どういう目的で活かされるべきかの疑問に毎度直面するのだろう。
不当だ、という怒りが発生してそれを解消するために取った復讐があらたな怨恨を生み連鎖させるのが歴史であり、尽きることのないカルマであるのなら、それを解消する方向に、知の力によって不満、不服を最小限におさえるのが法であるのだろうか。それが人間の生きるコミュニティでの掟といえるのだろう。
原告、被告それぞれが自分の側の主張が通ってしかるべきと考え、全力を挙げて争う法廷で裁判官は一体何をすればよいのか?行きの電車の中で考えてみた。

同情や憤りという感情を抑えて、というより、冷静さを保つことに情熱を傾けて、
「それぞれを最大限に明らかにすること」が使命なのかもしれない。
明らかにされた形によって現行法が適用されて形になる。人が人を裁くことはありえない。
しかし、人が作ったものによって裁きはあたえられる。

と、こう考えてくると本村さんの言い分はもっともだ。情を全く抜きにしても。
判決に対してでなく法そのものを問うのなら、問題にする場ではないのはわかりきっている。


話は変わるが
お昼を食べようと長いテーブルに座ったら何と目の前にハエがいた。
他に何人かいたので、場の雰囲気を考えるとことさらに騒ぎ立てることもできず、ましてや捕まえることなぞできずに・・さらには、ハエもごはんを一生懸命食べているらしいことを発見。
誰かがこぼしていったたまご蒸しパンのパンくずを満足そうに食べている。
そこで、私とハエは「お昼を食べている生き物」という同じカテゴリーに入ってしまったことを確認。
そこに何の違いがあろうものか、ジャイナ教みたいな聞きかじりの思想が頭をよぎり、
にっちもさっちも・・・私はただ、だまって食べ続けていた。ナチュラルローソンののり巻きみたいなサンドイッチを。味も何もなくただ黙々と・・ああ、こうなったら俳句でも詠むしかないか、と諦めかけていたところ、なんと!不意に入ってきていちはやくその状況を察知し、さっさと解決してくれた人が現れたのだ!しかも場を乱すことなく。とにかく有難かった。この際法などどうでもいい、救われればそれでいい、という自らのエゴを再確認した瞬間でもあった。

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