2007年8月31日金曜日

曲に想うこと1 道化師の朝の歌

今日はラヴェルの「道化師の朝の歌」

芸術家はその国籍、民族性によってその作品はああである、こうである、と評される。
ある意味、それは最も入りやすい切り口であって、その説明を聞いた他人にも疑問なく
理解され易い手っ取り早い新聞的な見方だ。
確かにラヴェルの父はスイス人、母はスペイン側のバスク人、今後あらたな研究で覆されない限り
そのことは事実であろう。
だからといって、スイスの機械的な職人肌、とバスクの堅実ながらも秘めたホセの情熱の血、を
と両親の出自で言い切るのもどうかと思う。旅行のパンフレットなら効果的だが・・
実際その作品のなかに潜るとむしろ表面的なことはどうでもよくなってくる。
それどころかそれらの表層を突き破って出てくるその人の「核」が見えてくるような気がすることがある。作曲は時間とともにある即興と違う。時間的な意図的な操作で満ち満ちている、はずなのにどんな策士であるか、を作為のなかに露呈している。その人らしさ、というか、「そうせずにはいられない人」
それは、インディヴィジュアル、なものと同質であるのかわからないが作品に集中すればしただけ、その人の表層部分がだんだんと削ぎ落とされてゆくのがわかる。
サルの剥いていくらっきょのように・・ラッキョウだとしたら、何にも残らないのかもしれない。
行き着く、ことはないのかもしれない。恋愛に「行き着く」ことがないように、ただ、行き着いた、という静止の状態が存在しないのを誰もがわかりきっているためにその過程に名を付けているだけなのかもしれない。

この曲のタイトルの由来はよく知らない。解説によっては道化師の朝帰りの歌、だとか・・
飛び跳ねるような自虐的ともとれる音型は確かに中間部はフラメンコで言うカンテ・ホンドのエスプリに満ちている。けれど、どうしても思わずにいられないイメージがある。
ツァラトゥストラの冒頭、広場で沸く哄笑と乾いた陽気さ・・

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