2007年6月23日土曜日

聴く

最近、ある楽隊を知った。

北村大沢楽隊。日本のその地方の歴史と共に泣き笑いしてきた、といえば

ドキュメンタリーを作るなら方向性の決まってしまう言い方だが、

存在を知ったことによって考えさせられたことがあった。



端的に言って

まるで調子はずれな、音感教育には間違っても良くない、クラリネットのリードとは信じがたい、

どうしてそこで入る合いの手?!など突込みどころ満載で最初の驚きが爆笑に変わるのに時間は要らない。が、同時に自分のなかのそういう反応にたいする牽制もあった。

これは、自分を錯覚し、自分の基準に当てはまらない物事への勝手な優越感ではないのか?

単純に言ってただ、私はその音感を馬鹿にしている嫌な人間なのではないか?



そう、自問させたのにはいくつかの気になる点があった。



第一に、

こちらが知らない曲ならば「はっとするほど美しい瞬間があった」ことを否定できなかったこと。

第二に

彼らが、なんの疑問もへんなプライドもコンプレックスとも無縁なところで、言葉通り「ただ演奏するのが好き」らしいこと

第三に

歴史に支配された人々の生活とともにありつづけてきたこと



それらを思い合わせると、楽隊とどういう出会い方をするかで印象はまるで異なるだろうというのが

想像された。



①何の先入観も無く、出くわす。

②抱腹絶倒の・・という触れ込みにつられて聴いた

③存在そのものに価値がある、という結論でおわる記事を読んだ上で



私は②の聴衆で、興味本位で聴いた為に、「そういう聴き方しか」出来なかった。

しかし、もし、シルクロードに伝わる民族楽器でそこの音楽を聴いている、という

認識の下なり、①の立場で聴いたとしたら、「なんて生命感溢れる大地の音よ!」とぬけぬけと言い放ったかもしれない。そう思ったときに、こちらの枠がぐらっと揺らぐのを感じた。

こちらの音感こそあさましけれ・・・絶対音感がなんぼのものぞ、地球の音楽のまさに微々たる上っ面、海の赤潮程度のものかも知れぬ。一体,442HZとか、平均律、とか純正とかいったい誰が決めたのか?それで都合がよい音楽はそれにのっとって弾けばいいだけの話ではないか?



メンバーは高齢であるが、全盛期に較べれば出演は激減したものの今でも請われるままに演奏に赴くという。人々の言葉に出来ない思いを飲み込んで戦場に送り出したこともあったという。



袖を通すたびに体になじむ服のように、聴く度になつかしく、それが普通になってくる音楽を耳にすると

一体、自分は何をもって「聴いて」いたのだろうか?と自問したくなる。

既成概念をとっぱらって「聴いた」ことがあったろうか?

常にある「それ」と近いか遠いかで「判断」する以外のなにものでもなかった。

特に北村大沢楽隊を神格化するわけでも持ち上げるわけでもないが

彼らがあるように「あるがまま」で居たい、とも感じ、

本来、日本人というのはかなりおおらかな民族なのであろう、と思った。

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