2007年11月5日月曜日

かつてのもの思い

この花が咲く頃にはきっと思いがかなうことを期待して苗を育てたことがあった。花は見事に咲いたが何も起こらなかった。ただ、それだけ。それだけなんて失礼だった 花の向こうにいつも希望があったのに それを随時慈しむことはしなかった。ただ それだけでうつくしい花。私はオキーフのようには見ない。

2007年11月3日土曜日

犬も送れるだろうか?
大丈夫のようですね

テスト

携帯より更新可能か?

2007年10月15日月曜日

秋の歌に寄せて

 去る九月二十六日の那須塩原、大黒屋さまのコンサートでは
秋にふさわしい和歌をセレクトし、各首のイメージを倍加させると思われるピアノ曲を
演奏しました。
大黒屋さまの完璧なホスピタリティに支えられて、ほんとうにこちらも心やすらぐ、
自然と一体となれたようなひと時でした。
ピアノは演奏すれば音が響きますが、実は演奏者はその音だけを聴いているのではなくて
感覚が異常に研ぎ澄まされてくるのです。(場合によっては遠くの話の内容すべてを聞き取れます)
今回は会場外の那珂川のせせらぎ、虫の声、風の音、が聞こえてくるままの十六夜が待たれる夕暮れどき。私にとって最高のシチュエーションでありました。
当然、音楽の内容にも影響を与え、こんな月の光を弾いているとは・・と自分でも驚いたくらい
いつもとは違う月の光。月光。水の戯れでした。
そして、最後のショパンの舟歌では、その曲をはじめてさらいだしたときのことが逐一思い出され
胸がいっぱいになって、そしてそのときもウェルテルとロッテが船に乗っている場面を思い浮かべたことなど、ショパンにとってはどんな舟歌だったのだろうと想像しながら・・

今回の和歌のセレクション、そして鑑賞、解説は箭内順一氏。曲目解説を上げてくださいましたので
詳しくはこちら
http://junitchy.exblog.jp/

弾いた曲順は
1、夕づく日・・ラヴェルの眠りの森の美女のパヴァーヌ  ラヴェル
2、まだ暮れぬ・・月の光  ドビュッシー
3、月見れば・・前奏曲 作品11-12 スクリャービン
4、嘆けとて・・月光 第一楽章  ベートーヴェン
5、竜田川・・水の戯れ  ラヴェル
6、眺むれば・・舟歌 ショパン 
7、行方なき・・コンソレーション リスト

一首ごとに曲を弾きたかったのですが、どうしてもつけられない歌がありました。
歌として完璧だと入り込む余地がありません。内容、それから音としてもう完成されていると。

だからといって歌詞になっている詩は完璧でないというわけではなく
想像をかきたてるものがある、なにかこちらも呼応せざるを得ないような・・
リートの詩もそうですね。

2007年9月21日金曜日

躊躇

 1.あることに耐え、そういうものだと受け入れて諦念のうちにあること

 2.それは違う、ともがいて周囲の謗りを受けながらも自分を貫くこと



どちらかといえば後者を選択してきた私。

1を選択している友人に言おうか言うまいか悩んでいることがある。

いや、諦念という言葉の正確な概念は知らないが、今の彼女の心の平安を諦念とするのは

こちらの愚かな詮索に過ぎないのかもしれない。
「でも、それでいいの?」「それで、本当に幸せと感じられるの?」

今、遠く離れているからこそ時折意識の中によぎる彼女の姿。

学生時代から断片的に会って、電話でしゃべり、手紙をやりとりするだけの・・



もっとも、私が一番近しいと思っている友とはお互いのあわただしさにかまけて電話すら、

年によっては年賀状すら「ごめーん、書かなかった」くらいだ。

コミュニケーションの多少が近しさに比例するとは思わない。



今、気がかりなのは、「本当に」彼女が幸せなのかどうか?だ。

できるなら、いつでも「よかったね」と言っていたい。

けれど、まぜっかえすような一言で気分を害されるのを覚悟で「他の可能性もあるんだよ」

と告げるのは・・それこそいらぬおせっかいだろうか?

こんなことで悩むのは、年月を経た今、別の友人が電話で忠告してくれた一言が今でも

心に残るからだ。「そんなの、あなたじゃない。あなた、幸せじゃないよ」

そのときは現状を否定されたような苦い気持ちで聞いた。気持ちはわかるけど、私の

実情を知らないからだわ、と。

けれど、自分の意思ではないながらも状況が変わってきた頃

ふとその言葉を思い出した。「ああ、彼女は痛々しい気持ちで私を見ていたんだ。言える精一杯のこ

とを伝えてくれてたんだ」

私がその友人と同じ立場に今あるわけではないだろう。けれど、私は尋ねずにいられないのだ。

私は、彼女の口から「これが、幸せ」と聞くまで。

でも、おそらく訊けないだろう。いや、でも今ならまだ間に合う?

私は逃げているのだろうか?

以前、前長崎市長の娘が夫落選の無念ぶりを長崎市民にぶつけた事があった。
「父は、みなさんにとってそれだけの存在だったのですか?」

これには様々な反応があったと思う。現に私でさえ、もしも仮にコメントを求められたら

自分の意見として一本化するのに困った。
「投票し、支えてくれた人もいたのになんて失礼!」
「思い込みで政治をされるのは困る」
と否定的に見る自分と同時に、ちょっと感動している自分もいた。
「素直に心情を吐露する姿は胸をうつ」たとえ理不尽であっても・・

そう、理不尽であったとしても自分をさらけだして貫いてほしい。


自分の立場からは「本当はこう思う」というのを聞きたい。

2007年9月16日日曜日

国民という言葉

国民という言葉は、確かにあるのだし、それはそれで指示する対象がはっきりとわかり便利なのだが、はて、いったい具体的に誰を、誰たちを指しているのかいまひとつ実感が伴わない。
徹子の部屋の「テレビの前の皆さま」という呼びかけくらい「あ、皆さんのなかに私も入っているの?」という自問が10分くらいあとでなされるくらい実感が伴わない、実はかなり虚ろな言葉なのだ。

何かの言い訳、あるいは敵を誹謗するときの引き合いに出されるくらいで、「国民」は夫婦喧嘩の原因にされた子供みたいに所在無くおろおろするしかない。そのうち、誰かの味方をするでもなく馬鹿らしくなってくる。傍観を決め込む。すると、政治参加する気がない!だの怒られる、国民ひとりひとりのの力で!また国民だよ。。とうんざりする。
と、ぼやく私はいったいなんて呼ばれたいんだ?とただのクレーマーに堕する危険を察知し、自問してみる。
「日本に住んでいる人」でいいんじゃないでしょうか?

ところで、あの辞任劇を私はこう読む。
一夜で変わった訳を。あのどんでん返しを。
きっとものすごい圧力がかかったのだ。国際的に。
ただ日を選んで圧力がかかったのだ。
周囲の反応からして察してあまりある窮地に陥った首相を想像する。
言っていることは理由のほんの2,3パーセントで、もしかしたら
も星新一ふうにいうならば、首相自身、もうすでにアンドロイドかもしれない。
好き嫌いでいうならば、嫌いでなかった安倍さん、いかにも一応東宮ふうで、
おっとりしていて家柄は周囲からも文句の付けようがない。
それに乙女座だ。私の弱点である。
乙女座の国民の皆さん、いえ、乙女座の日本に住んでいる皆さん、私の判断を誤らせるので
どこかに行ってください。